定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm
絵/大竹伸朗
インカの末裔 Sacred Day
photos / MARTiN CHAMBI text / 白根全
時空を越えた信仰 Let it be as it is
photos / 齋藤亮一 text / 石澤良昭
九十九里浜 Lively Coexistence
photos・text / 小関与四郎
紀伊半島 A RadiantLand
photos・text / 百々俊二
高校生 The Flame Within
photos・text / 小野啓
永遠の現在ということ
text / 前田英樹
一神教と多神教
text / 酒井健
召命
text / 田口ランディ
金沢で会う寒山、拾得
text / 管啓次郎
因縁とはなにか
text / 養老孟司
流るる水の如く
text / 甲野善紀
事実と真実
text / 森達也
生き物としての「完成」
text / 日髙敏隆
ポンペイとヴェズーヴィオへ行く
text / 川田順造
描写とは何か
text / 小栗康平
芸術的思考様式
text / 保坂和志
ナイフと傷、反復と共鳴
text / 古谷利裕
今、ここから全ての場所へ
text / 茂木健一郎
今ここにある生 ②
photos・text / 古賀絵里子
かけがいのないひとつの死 ②
photos・text / 桃井和馬
新グレートジャーニー ②
ベルホヤンスク山脈のハンターたち
photos・text / 関野吉晴
複雑精妙な関係によって現われる生命の形は、
どの局面も厳粛に完成している。
生物であれ無生物であれ、
自ずから然るべき状態とは、
どれ一つ同じものはない関係のなかで、
そのものならではの均衡を得ることだろう。
生命の原理は、一つの公式を全てに当てはめるのではなく、そこにしかないものを、そこにしかないものと組みあわせ、その時ならではの微妙な条件を重ねながら陰影を深く刻み、次々とつながっていく仕組みにあるように感じられます。
この世界では、様々な因縁によって、かけがえのない関係性が生まれ、その関係性によって様々なモノゴトが生じ、そこにまた新たな関係が生まれる。全ての関係は刻々と変化し、変化することでバランスを危うくしながら、そのプロセスを全て反映させて生命の形も変化していきますが、そのような因縁で現れ出る一度きりの危うい生命の形は、どれも厳粛に完成しており、だからこそ、尊く、有り難い。
生物であれ、無生物であれ、自ずから然るべき状態とは、どれ一つ同じものはない複雑精妙な関係のなかで、そのものならではの美しい均衡を得ること。
雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛
<スライドショー>
創刊~8号 9~16号 17~24号 25~28号 29~30号 31~32号 33~34号 35~36号 37~38号 39~40号 41~42号 43号 44号
<特集内容>
創刊~第4号 第5~第8号 第9~12号 第13~第16号 第17~第20号 第21~第24号 第25~第28号 第29~第30号 第31~第32号 第33~第34号 第35~第36号 第37~第38号 第39~第40号 第41~第42号 第43号 第44号
定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm
絵/大竹伸朗
Babel I 【ネバダ核実験場】
photos / Richard Misrach
Babel II 【ラスベガス】
photos / 中野正貴
Babel III 【森林破壊】
photos / Stuart Franklin
Babel IV 【経済大国・日本】
photos / 広川泰士
Thanksgiving 【死を待つ人々の家】
photos・text / 小林正典
見ることと、在ることの受容
text / 小栗康平
運命の二重性
text / 甲野善紀
コスモスの正義
text / 酒井 健
鳥と森、島と果実
text / 管啓次郎
新グレートジャーニー ③
「ベルホヤンスク山脈の野生羊猟」
text / 関野吉晴
偉大な母と透明な僕
text / 田口ランディ
完成された生のパターン
text / 日髙敏隆
ないものの(頭の中での)存在
text / 古谷利裕
リアリティの原理
text / 保坂和志
迦微(カミ)と申す名義(ナノココロ)は未思得(イマダオモヒエ)ず
text / 前田英樹
孤独ではない
text / 茂木健一郎
かけがえのないひとつの死 ③
text / 桃井和馬
暴走の理由
text / 森 達也
色即是空
text / 養老孟司
今日の地球上の破壊や虚無は、
他の何かの備えや過剰と裏表である。
今日の人間世界は、一つの規則を標準化して固定しようとすることが多いですが、自然世界においては何一つ固定できるものはなく、全ては移ろいすぎる現象にすぎません。
移ろいながらも常に新たな関係が結ばれていく現象の背後には、何らかの働きがあるのでしょうが、その働きは、様々な部分が相互に影響し合いながら微妙に変化しますから、一つの現象を取り出して分析する視点で全体の動きを捉えることはできません。一部分ではなく、さらに多くの現象を集めたとしても、全体にはなりません。
人間は、この世界の全てを見ることができないのに一つの正しい答を求めようとします。一つの正しい答を求めるために、自分に見えないことを排除して、思考することが多くあります。
自分が見ることのできないものを無いものとみなし、自分が有ると信じるものだけで答を決め、その答に従って生活のルールを組み立て、ルールに従えばよいという大義名分で人間の都合に添った現象が増殖していく。そのなかで、手に負えない欺瞞と思い上がりが育ってきます。
人間にとって、この世の現実とはいったい何なのか。そして、その本質は何なのか。
今回の30号で「われらの時代」というテーマが終わり、大竹伸朗さんに制作していただく表紙は最後になり、次号から「永遠の現在」というテーマのもと、望月通陽さん制作の表紙に変わる。
その節目にあたる今号は、20世紀に支配的だった価値観を俯瞰できるものにしたいと考えて編集した。
巻頭には、ネバダ州の核実験場の写真。広島に原爆を落としたエノラ・ゲイが核弾頭の搭載を行った場所だ。それに続くのがラスベガスの写真。19世紀まで荒野にすぎなかったラスベガスは、ネバダ核実験場から、南東に僅か105kmしか離れていない。105kmというのは、東京駅から熱海駅までの距離とちょうど同じだが、その至近距離のところで驚くべき回数の爆破実験が行われていた。
原爆の力にすがることで国家の安心立命をはかる。そういう意味で原爆は、20世紀後半の「神」と喩えることができる。核実験が盛んになる頃、ラスベガスのホテル経営から表向きにマフィアが手を引いてから、ラスベガスは、賭博よりも華々しいアミューズメントパークの装いを強めていくのだが、古今東西、聖地と歓楽は一体化もしくは隣り合って存在しており、ラスベガスもまた例外ではなかった。
そのラスベガスに、2005年、原爆博物館がオープンした。そこには、 大気圏核実験の様子を映像と振動と風でリアルに疑似体験できる「グランドゼロシアター」というものまであるらしい。この博物館の土産物は、原爆のキノコ雲を描いたマグカップや帽子やキーホルダーなどで、そのことに対する批判もあるらしいが、消費者の多くが求めるので仕方がないと説明されている。
原爆のキノコ雲も、原爆実験によるクレータも、おぞましさのなかに美しさを感じる。それは、原爆が引き起こす現象が核反応をはじめとする宇宙の摂理を反映したものだからだと思う。同じ宇宙の塵から誕生した人間が、それに心惹かれるのは、むしろ自然なことかもしれない。
キノコ雲は、おそろしく美しく、その「畏れ」を、宇宙の摂理そのものに向けるならば、その前で人間は厳粛にひざまずき、謙虚にならざるを得ない。
しかし、キノコ雲を、土産物のように自らの手中で自在に扱えるものと錯覚し、それを自分の都合で利用して他者を威嚇したり攻撃しようとする意識が芽生えてしまうところが、自我というものを肥大させた人間の性なのだろう。その自我に基づく行動を正義と結びつけて正当化することが、20世紀の人間が巧みに発達させた思考だったのではないか。
第30号で核実験場やラスベガスの写真とともに紹介するのは、ヨーロッパやアジアの森林破壊現場だ。近年、トウモロコシやパームオイルなどから作るバイオエタノールが、再生可能な自然エネルギーであるこや、燃焼によって大気中の二酸化炭素量を増やさない点から、新たなエネルギー源として注目を浴びているが、その生産過程全体において、森林破壊を伴うことや、食料用作物の耕作面積が急激に減らされていることを無視するわけにはいかない。また二酸化炭素の吸収や保水力に優れた森林の減少が地球温暖化にもっとも大きな影響を与えると指摘する研究者もいる。
今日の地球上の破壊現象は、他の何かを守ったり作るために成されている。現代人は、二つの価値観を天秤に乗せて、今の自分たちに都合の良い一方を選ぶ時、もう一方を簡単に切り捨ててしまう傾向にある。
そうした目先の分別によって、浮かれて作られるものが増えるほど、切り捨てられるものの傷口が広がっていくのが現在日本の風景だ。
それが良いとか悪いとかではなく、私たちがいったいどんな価値感を優先して生きているのかということは、写真を見れば一目瞭然だろう。
その価値感の総合が私たちの社会であり、政治家だけを批判しても何にも変わらない。誰か他人を批判している時は、自分たちのなかに巣くう不気味なものの正体から目を背けることができるかもしれないが、本当に不気味なものは政府の動きではなく、自分たちの心なのだ。
以上の展開を締めくくるのは、小林正典さんが撮ったマザーテレサだ。マザーテレサが行ったことは、「弱者救済」などと安易にスローガン化できるようなことではない。死を待つ人を健康な身体にして社会復帰させたり、施しを与えることではないのだから。
マザーテレサは、物質的な貧しさよりも心の貧しさの方が深刻であると訴え続けていた。とりわけ先進国でそれが目に余る、豊かな国ほど飢えが目立つと。
物質的に豊かな国ほど、「有り難み」が欠乏している。周りの人たちに対してもそうなってしまうし、生きていることにさえ有り難みを感じられない。だから、常に飢えて何かを渇望している。
格差社会をアピールするのも、この時代の正義感だからだろうが、物質(お金)が多いか少ないかが人の幸福の全てを決めてしまうかのような報道が多くなりすぎると、物質的に満たされている人が安心して、心の貧しさの深刻さから目を逸らしたり、物質的に乏しい人が、自分の心の豊かさに気付けなくなる。
20世紀から21世紀になり、表面的な現象は変化を繰り返すが、私たちはまだ同じ価値観のなかに生きている。それでも、価値観が少しずつ揺らいできているのは確かで、それに気付いている人もいる。
もし、価値観の揺らぎが見えにくい状況にあるとすれば、その原因の主なものは、情報を伝える媒体の多くが、いまだ20世紀の価値観に縛られたままだからかもしれない。
雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛