風天塾(ワークショップ・セミナー) 

かんながらの道〜ニヒリズムを超えて〜

 <京都>日時:2025年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時

 場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅)

 

<東京>日時:2025年2月23日(日)、2月24日(月) 午後12時半〜午後6時  

 場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅

 *両日とも、10名限定。(1日で完結)。京都、東京とも、資料代として、おひとり様2,000円をいただきます。 


彼岸に目を向けることなく、すべてを、神に関することも、死も、すべてこの地上のこととして考え、すべてをこの地上の生のうちに見ること。

すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。

           ライナー・マリア・リルケ

                           (左写真)

「かんながらの道〜日本人の心の成り立ち〜日本の古層Vol.5」  

 2024年10月26日発売。



 日本人は、これまで、古いものと新しいもの、聖なるものと俗なるものの間に壁を作らず、神と仏を習合し、土着と外来を重ね合わせてきました。
 こうした日本人の心は、いかにして作られてきたのか?
   様々な問題に対応していくうえで、もちろん知識や技術も必要ですが、何よりも心の在り方が大切であり、現代の課題を克服し未来への橋を架けていくうえで、改めて日本人の心について考える必要があるのではないかと思われます。
 ヨーロッパ世界において、一般の人々のあいだに文字が普及したのは、今から500年ほど前、グーテンベルグの活版印刷によって聖書が印刷された頃です。
 この発明によって、カトリックとプロテスタントの分断が起きて激しい宗教戦争の時代になりますが、お互いに敵を悪魔扱いするチラシを大量に印刷し、憎悪がいっそう激しくなり、戦争もより一層深刻になりました。
 そのように、ヨーロッパ世界の文字の普及が、敵と味方、正義か悪、黒か白というように対立的に物事を捉えることから始まったことに比べ、日本における文字の一般的な普及は異なっていました。
 日本では、1000年ほど前から「いろは唄」を通じて、広く一般の人々のあいだに文字が普及していき、中世における識字率は、かなり高かったとされます。
 そして、その文字普及における特徴は、「いろは唄」にこめられた精神が、文字を学ぶことと同時に日本人の心に浸透していったことです。
 「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」の元は、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」です。
 「この世のすべて、例外なく、やがて散りゆく運命にある。」そして、有為の奥山を超えるというのは、有為=形あるものへの囚われを無くしたということで、そういう境地に至ったから、はかない幻想を抱いたり、(酒に酔ったような)状態で、日々を過ごすようなことはない」という意味になります。
 この元になっている言葉が、(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅(への囚われ)が消えてなくなれば、煩悩から離れ、それは死と変わらぬ安らぎである)。
 つまり、全ての物事は移ろい消えていくものであるから何をするにも虚しいと投げやりになるのではなく、だからこそ、執着を捨てて清く潔く生きればいいと説いているのです。
 旧約聖書の中のソロモン王の歌、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」というニヒリズムを超える精神、すべては空だからこそ自分のつとめをまっとうすればいいという清々しさが、「いろは歌」にはこめられています。
 この心理は、おそらく日本人ならば、わかるところがあるのではないでしょうか。1000年のあいだ、文字を学びながら、日本人は、この哲学を身につけてきました。
 温故知新というのは、単に昔のことを調べたり知るだけでなく、故きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得することです。

 東京と京都で交互に行っているワークショップセミナーは、単に歴史のお勉強ではなく、過去と未来をつなぎ、近代合理主義に偏った視点では見えてこないものと、視点や意識を変えることで見えてくるもののあいだに、橋を架けることを心がけたいと思っています。  


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