定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm
時と相
森羅万象は、内も外もない生命流のうねりであり、多種多様な波が絶え間なく揺らぎながら、無限に連続している。
生命流のうねりのなかで、それぞれの波が複雑精妙に関係し合い、その時ならではの相が現れ、たちまち消えて、また現れる。
この世で見られる一切の現象は、生命流の変容していく相であり、一つの断面を固定して決定付けることは、人間の都合にすぎない。
(風の旅人 編集長 佐伯剛)
望月通陽
WAVES
photos・text / 森永純
ROCK OF AGES
photos・text / エドワード・バーティンスキー
SNOWY TIME
photos・text/ 萩原義弘
北国の時間
photos・text/ 中藤毅彦
車窓から
photos・text/ 内野雅文
Expression
photos・text / 初沢克利
【連載】電気の働きに満ちた宇宙? 第5回ーエウロパとエンケラドゥス-
text / デビット・タルボット
不易流行と軽み
text / 酒井健
「在る」ことの奥行き
text / 小栗康平
狭間を見下す驕り
text / 森達也
熊本、コリア、洗足池、キラウエア
text / 姜 信子
歴史の風景
text / 前田英樹
ラロトンガ縦断、その他の気まぐれ
text / 管啓次郎
ユージン・スミスの旅
text / 田口ランディ
熊野、循環の恵み
text / 辻桂
旅人の心得3
text / 皆川充
新グレートジャーニー⑧
「南サハリン縦断」
photos・text / 関野吉晴
森羅万象は、内も外もない生命流のうねりであり、多種多様な波が絶え間なく揺らぎながら、無限に連続している。生命流のうねりのなかで、それぞれの波が複雑精妙に関係し合い、その時ならではの相が現れ、たちまち消えて、また現れる。この世で見られる一切の現象は、生命流の変容していく相であり、一つの断面を固定して決定付けることは、人間の都合にすぎない。
巻頭で紹介している波の写真は、森永純さんが30年の長きにわたり撮り続けているものだ。その写真は、刻々と変容していく波が見せる瞬間ごとの美しい相がとらえられている。森永さんの写真は、巷に数多く見られるような波の動きを切断しただけの写真ではなく、それ以前の動きと、それ以降の動きをつなぐ絶妙な均衡がとらえられている。それゆえ、写真という静止空間にもかかわらず、波全体および各部分がうごめき、波そのものの生が持続していることが伝わってくる。波は、それ以前の力を受けて、次へと伝えながら絶え間なく変化し続けているが、どの一瞬を切り取っても同じものはない。波の一つ一つは常に新しい形を見せる。しかし、全体として見れば、いつまでも変わらない波ならではの摂理がある。繰り返し繰り返し、これまでも、そしてこれからも、その時ごとの必然性のなかで、なるべくしてなるように全体と部分を整えながら、次なる動きを生みだしている。
次に紹介する「ROCK OF AGES」の写真は、エドワード・バーティンスキーさんが撮ったアメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどの石切場の写真だ。数百年、なかには数千年、人間が巨大な岩を切り刻んできた跡が見られる。この一瞬だけその現場に佇むと、巨大で堅い岩肌は「不変」のように見える。しかし、数百年、数千年という歳月で見ると、人間の都合によって刻まれながら、次第に異なる相に展開していくことが伝わってくる。人間は、自然の中から自分に有用なものを取りだして様々な物に加工する。さらに、永遠性に憧れ、変化の少ない石の性質を、宮殿や邸宅や彫刻芸術等に利用してきた。そうした人間性が変わらないかぎり、これからも、石切り場全体は少しずつ変容し続けていくのだろう。
「SNOWY TIME」は、雪に埋もれた廃鉱だ。人間の必要に応じて作られ、繁栄の頃は多くの人で賑わっていた北海道の夕張や飛騨の神岡鉱山などに、萩原義弘さんは25年もの長い間通い続けている。人間の役に立つかどうかは関係なく、「そのものじたい」に還った物たちが、雪のなかで、そして萩原さんの写真のなかで、ひそかに息づいている。雪も、人間が作る物も、儚き時間のなかにあるが、個々の変容の速度は、大きく異なっている。しかし、それらの相異なるものが出会い、響き合う場は、それぞれの存在の儚さと力強さを同時に引き立たせながら、全体として美しく均衡し、その時、その場だけの稀有なる相を生みだしている。
「北国の時間」は、雪深い北国の街、人、風景を中藤毅彦さんが撮り下ろしたものだ。地方都市に行くと、すぐに変わっていくものと、なかなか変わらないものの両方が、それぞれ別の時間の波長を持ちながら同時に存在していることがとてもよくわかる。その両方の波の配分が少しずつ変わっていくことで、風景も変わっていく。しかし、一面に雪が降り積もると、全てを白紙に戻すような光景になる。変わりやすいものも変わりにくいものも、昔も今も変わらない白い雪に、すっぽりと覆われる。目の前の変化に翻弄され、自分を見失いがちな時、雪景色の中にいると心鎮まるのは、時と場所を超えた永遠の相がそこに現れているからだろう。
「車窓から」の写真は、文字通り、日本国中を巡りながら、車窓からの風景を写真で切り取ったものだ。電車の動きとともに、四季の移ろいとともに、一瞬、一瞬、変化していく風景のなかに、昔から変わらない懐かしい人間の営みがある。人と人、人と風景の一瞬ごとの出会いというものが、これまでも、そしてこれからも、変わるものと変わらないものが交錯する相のなかに生じていることが、電車の窓を通じて伝わってくる。この写真を撮った内野雅文さんは、今年の元旦、京都で撮影中、心臓麻痺によって34歳の若さで他界した。無常の世で彼自身と出会うことはできなくても、これらの写真の枠を通して、彼の眼差しと息づかいを、いつまでも変わらずに感じることができる。
「EXPRESSION」は、初沢克利さんが一人の人間の表情を二つずつ撮ったものだ。あどけない顔と、真面目な顔。子供のように無防備な顔と、大人のように用心深い顔、とも言えるかもしれない。大人の顔は、少し哀しい。子供の顔は、見ている方も嬉しい。人間は誰でも、その二つの相を持っている。違いがあるとすれば、両方の配分が少し違うくらいだ。子供から大人になり、老人になっていく過程においても、その配分は次第に変化し続けていく。変わらないのは、誰しも、その二つの相の間で揺れ動いているということだ。どちらか一方の相だけで、その人を決定付けることはできない。人間は、一定の場所に固定された物体ではなく、常に揺れ動き続ける波なのだから。
雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛
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定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm
時と転
砂漠の中を歩きながら、砂嵐に巻き込まれると、視界がきかず、混沌とした世界に感じられるが、全体を眺め渡せる場所に出ると、局面ごとの様相や、動きの方向性が見えてくる。
時代や社会の急激な動きの中に巻き込まれると、視界の中に飛び込んでくる物事に意識がとらわれ、混沌とした世界に感じられるが、そこから距離を置くと、様々な関係性が見えてくる。
世界が混沌に見えたり、秩序的に見えたりするのは、どこを、どう切り取るかという意識次第である。
意識が変わると、視点が変わる。
視点が変わると、世界が変わる。
(風の旅人 編集長 佐伯剛)
望月通陽
砂漠〜都市
photos/ バルタザール・ブルクハルト
遠い場所の記憶
photos / 川田喜久治
Japan・・・ a chapter of image, 1961
photos・text/ ユージン・スミス
戦後東京、50年のうつろい
photos/ 石元泰博
【連載】電気の働きに満ちた宇宙? 第6回 火星-
text / デビット・タルボット
転成への夢
text / 酒井健
目に見えにくいところに見えるもの
text / 佐伯剛
内から生まれ出る眼差し
text / 小栗康平
転移する全体と、一人ひとり
text / 森達也
日本の天職を知る
text / 前田英樹
神を求めて泣きなさい
text / 田口ランディ
君は覚えているかしら
text / 姜信子
武漢
text / 管啓次郎
旅人の心得 4
text / 皆川充
ロールシャハテストでは、その時の心理状態や、様々な要因によって、二人の人間が向き合っているように見えたり、壺に見えたりします。どちらにも見える可能性があるのですが、黒の部分を強く見る意識が強化されると、そのような見え方しかできなくなり、他の見え方が、この世に存在しないものになってしまいます。
現代の日本社会は、メディアなどを通じて、物の見方を一方に揃えさせていく圧力がとても強いです。ロールシャハテストに喩えると、最初のうち何となく「顔」に見えていたイメージ画において、この部分が鼻だとか耳だとか、大きな声で主張したり理由説明を行う人の声を聞いていると、次第に顔にしか見えなくなっていきます。説明する人が、世間で立派だと評価されている場合は、なおさらのことです。立派な人は、自分の評価を確固たるものにするため、顔だという証拠を周到に集め、自分を支持する人を増やそうともします。
教育もまた、イメージ画を「顔」とみなす権威のお墨付きを前提に、なぜそれが顔なのかという分析結果を、できるだけたくさん身につけることが重視されます。
なかには、イメージ画が「壺」に見えて、大勢の人が「顔」だと言っていることに疑問を感じる人もいます。疑問を感じながら自分の意識世界のなかに閉じこもっていくと、今度は「壺」にしか見えなくなってきます。そうした状況のなか、自分の目え方を否定して周りに合わせて生きていける人もいますが、自分に正直な人は、様々な軋轢を抱え込むことになるでしょう。
イメージ画が「顔」に見えることもあれば、「壺」に見えることもある。いろいろと可能性があるなかで、その都度、最善の判断をしなければ生きていけないとしたら、私たちは常に緊張状態でいなければなりません。あらかじめ「顔」だと決定しておくと、それに対応する準備ができます。そして、「顔」である理由を大勢が共有し、そのことに素直に適応しさえすれば生きていけるようにする。それが平和時の人間社会であり、決まり事への適応を上手に行える人ほど社会的に優位になります。その状態が長く続くと、人間は、イメージ画を「顔」だと定めたのは、その時の事情にすぎなかったことを忘れてしまいます。
現代社会では、物が豊富で、便利で、楽なことが、一般的に豊かさの基準となり、その線引きで多くの物事が決められていき、社会全体として益々その傾向を強めていきます。しかし、豊かさの基準をはじめ、世界の意味は、完全に決定できるものではなく、常に他の可能性に開かれています。たとえば、物を持たず、不便ではあるけれど自分の足で歩き、様々な困難と出会いながら旅したことが、このうえなく豊かに感じられることもあるのです。
人間は、一つの体験によって、それまでの認識ががらりと変わることもあります。ある日突然、自分が拠り所にしていた「意味」が無意味になる時、それまでの基準に添って蓄えてきた物を失うことを恐れ、従来の「意味」に執着し、力づくでそれを正当化する人もいるでしょうが、新しい「意味」によって、行き詰まりから脱出できる人もいるでしょう。
「転」というのは、つきつめて言えば、意味が変化することです。「顔」にしか見えなかったものが、「壺」に見え出すことです。世界そのものの本質は何も変わらず、人間は世界を見たいように見て、解釈したいように解釈し、意味づけています。
しかしながら、何かをきっかけにして、自分が拠り所にしていた意味が揺らぎ、視点が変わり、それまでとまったく違う世界が見えてくることがあります。そうしたことは、人生のなかでも何度も起こりますし、人間の歴史のなかでも、何度も繰り返されていることなのでしょう。
雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛